Natsuko’s Channel

『祈り』について

著書「神さまが味方するすごいお祈り」でもお話しております「祈り」について……今日はじっくりお話したいと思います。

 

・祈りとの出逢い

・祈りの主語は「わたし」ではない
・祈りによる現実創造とは?

・祈りをもっと自由に楽しんで

 

祈りとは

今日はですね、「祈りについて」ということを、お話ししてみようかなと思っています。

わたしはこのメディアサイトでもご紹介のページがあるんですが、「神様が味方するすごいお祈り」というフォレスト出版の編集の方がつけてくださったすごいタイトルの本を出させていただいてるんです。すごく表紙の箔がきれいで、可愛らしい本なんですけれども。
要するに、「祈りについて」ということを書かせていただいていて。

わたしは小さい頃に祖母とずっと教会に行ってたんですね。小さな教会なんですよ、田舎の、普通の。
貧しいとまで言うのは語弊があるかもしれないんですけれども、ドイツプロテスタント派の教会にね、行ってたんですけれども。
そういうところで人が一心に祈っているっていう姿をいつも見ている、っていう環境で育ってるんですね。

祖母、一緒に住んでたおばあちゃんも、お食事を召し上がる前とか、お掃除をした後とか、書道の先生をしてたんですけれども、自分のなかの、その暮らしの大きな何か出来事とか、
暮らしのなかでの素敵な場面、彼女はお庭を掃除するのが好きな人で自然のなかにいるのが好きで、そういった瞬間によく祈っている方だったんですよね。

何を祈ってるかっていうと、「この素晴らしい経験、美しい経験、喜びの経験をありがとうございます」ということを。クリスチャンなんでキリスト意識、イエス・キリストのみなを通して大いなる存在に感謝をするっていうことを常々してらした方なんです。

 

好きになった人がたまたま「神の子」だった

わたしは、その教会に行くことによって、ジーザスですね、イエス・キリストの勉強というかお話をいつもされているとか、それを聞いているっていう状態で。
たくさんの病気の方達をただ治して、道で歩いて困っている人たちに優しく寄り添ってっていう。推定年齢30歳前後ぐらいでしょうかね、その青年のお話をずっと聞いていて。
なんて素敵な方なんだろうっていうふうに思っていたっていう。
「好きだな、こういう方」って思った男性が、たまたま「神の子」って呼ばれてた、みたいな感じで。

ジーザスに対して、ほんとうに自分のなかに愛っていうものを生きるお手本みたいな感じで。
そのジーザスの教え、キリスト意識をすごく敬愛して、尊敬して、ご自分の活動をされている慈善活動家のマザー・テレサさんだったりとか。
いろんな奉仕活動に勤しんでいる偉人の方もたくさんいらっしゃったということもずっと教育を受けていたんですよね。教会で神学的な教育を受けていたんです、わたしは。

なので、祈ることについてあまり解説するほど、不自然なものじゃなくて、もっと自然なものだった。いつも当たり前にお祈りっていうか。
何か嬉しいことがあると、「神様、ありがとう」っていう感じで。
人間の両親だけじゃなくて、もっと違う存在のお父さんみたいな人がいて、その人が全部のチャンスとかタイミングとか経験をくれているっていう教育をほんとうに小さいうちから受けているので。それをやっぱり思い込んでいるところももちろんありますし、それが自然なんですね。

わたしは祈りっていうことを通して、何でも心のなかで「ありがとう」って言う相手がいたので。
嬉しいことを「こんなことがあったのは、あなたのおかげなんですね、ありがとう」っていう存在が、胸のなかにいつもいたので、心のなかのおしゃべりをする習慣もすごく伸びちゃうわけです。独りごとが多い子供っていうか。

だから、お祈りっていうのは自己対話を自然と増やしている時間でもありましたし、内観する力っていうのが自然についちゃうんですね。小さい頃から。

 

祈りによる現実創造を子どもの頃から知っていた

そうやって、自分の内側に矢印を向け続ける習慣をしていると、自分の思っていることが現実に形になることが多いなっていうことに、かなり小さい頃から気づいていたんです。

祈りっていうと日本の方というのは、神道だったりとか仏教だったり国の宗教とか信仰の文化があるんですけれども。

たとえば、どなたかがご病気であったりとか、ご健康を祈ったりとか、優しい気持ちで何か被害に遭われた方に対してのお祈りをしたりとかっていうことが、すごくスタンダードの雰囲気があります。

わたしは、毎日毎日、自然に自己対話、祈りによって何か大いなる存在に見えないけれども感謝をしていくことによって、それが形になるスピードの速さということにすごく気づいていて。

だから、わたしのなかで祈りっていうのは、実は【現実創造の方法】というか、これ以外に現実を作る方法ってないんじゃないかな、っていうふうにむしろ思っていた、スキルというか。スキルって言ったらちょっと語弊があるかな。でも、そういうのが、わたしのなかでは自然だったんですね。

反対に、この「祈りで具現化される」ということを、あまり強調を置いた教育をしている教会には行っていなかったので、保守派の、わりと古典的なね、保守的な教会で育ちましたので。
だから「牧師さんとか、伝道者さんはその話をなさらないけど、お祈りするとなるよね」っていう感じのことはずっと心のなかで思っていたんですね。

大人になってから、奇跡のコースの勉強させていただいたりとかしていくうちに、やっぱり祈りっていうものが、「現実創造の唯一の道」であることとか、あとは「ヒマラヤ聖者の探求」っていうご本もありますよね。
そういったものも、やっぱり祈りということで、全部現実が作られるっと書いてあります。

 

高野山での不思議な出逢い

わたしが書かせていただいた本、実はこの本を書きあげたときにですね。
奇跡のコースのお勉強を一緒にしていた先輩の、息子様が高野山に出家されたんですよね。15歳でお坊さんになられた息子さんをお持ちのわたしの女性の先輩がいらして。
なので一緒に応援したくて、彼をね、息子さんを。
誘ってくださってたので、高野山にちょっと覗きに行ったり、励ましに行ったり、お祈りに行ったりしてたんですけれども。

そのときに、彼がお勤めしている高野山のなかの『無量光院』というお寺がありまして、そこに土生川 正道(はぶかわ しょうどう)様、前官様と呼ばれていらっしゃる、とてもご高齢の、80歳超えていらっしゃる素晴らしい高僧の方がいらっしゃって。

その土生川様がですね、高野山を世界遺産にしたと言われている方なんですよね。高野山大学で真言密教とキリスト教っていうものの、相似というか似ている共通点……「信仰とは、大いなる存在に祈っていくってことに全くその違いがない」ということに気づかれて、みずからバチカンに足を運びになったような方なんですよね。
そのことで、バチカンのローマ法王様がすごく感激なさって、高野山にいらっしゃったんですよね、ローマ法王が。
それで素晴らしい場所ですねってなって、世界遺産に道が開いていった、という。

その土生川前管様っていう方がいらっしゃって、そこで、そんな祈りのエキスパートの方に、とても優しい屈託のない奇跡のコースの先輩がですね、前管様に、このわたしの本を上梓したというか、「よかったらご覧ください」みたいな感じで、朝の勤行のあとのお話するお時間のときに、この本を差し出してくださっちゃったんですね。

ありがたいことなんですけども、ちょっ恐れ多い感じもあってなんですけど、とてもインテリジェンスな方で、英語とかもお出来になるので、ほんとうにこうさらっと、たかだか2~30分の時間で、この本をどんどん読んでいかれるんですよね。それで「これいただいていいですか。」と、こうサッとお持ちになってですね、わたしはもうありがたくって、もちろんですっていう感じで、「ほんとうにありがとうございます」って言って、お話しの部屋から帰っていったんですね。

そうしまして、お部屋に戻って帰る支度なんかをしてましたら、先輩の女性が「なっちゃん、なっちゃん、ちょっと前管様が呼んでるから、もう一回来て」って言われて。「はい」と行ったら廊下のところで前管様がお立ちになって、「あなたのこの本で言ってることはすごく正しい。」って言ってくださって。

 

祈りの「主語」はわたしではない

祈りっていうのは、主語がわたしの祈りを叶えてくださいとか、わたしをこうしてください、ということではない、ということを書いてあるんですね、この本に。

主語っていうのは、神とか、大いなる存在が主語で祈るものなんだ、と。要するに、実は、わたし一人じゃないんですよ。わたしっていうものは、実は祈りの世界というか、スピリチュアリティの世界では存在していなくってですね、ちょっと難しいかもしれないんですけれども。

わたしは、あなたも、実は全員ひとつなんですよね。ひとつの愛っていうもの。それが=神・大いなる存在だから、そこに向かって全体性である自分に対して、要するに、神そのものの一部の自分ですよね。

だから、主語を「神」という存在に対して感謝をすると、現実がものすごく動き出すっていう秘技というか秘法というか。

そのことを「よくお書きになりましたね」って言ってくださって「ありがとうございます」と言って、廊下でわたしに頭をわざわざ下げてくださった、っていう経験をさせていただいたんですね。

密教の教えもすごくそういう教えなんですね。
わたしは、フォレスト出版さんでリンポチェ様、ダライラマ14世様のすごく側近であられる僧侶の方とも対談というか、お話をさせていただくような機会を頂いたりして。

奇跡のコースっていうのは、実はキリスト意識のなかでは非常にブッティスト、要するに密教の教えに一番似てるって言われているような教えであって、キリスト教のさらに向こうみたいな感じにタッチしている教えなので。
すごく共通点が多いっていうか、共通点が多いんじゃなくて、「真理がひとつ」なわけなんですけれども。そこにタッチして、触れてる、すごく直接的にダイレクトに密教とコースというのは触れてるんですよね。

そこに触れ合った、土生川さんだったりとか、リンポチェ様だったりとか、わたしだったりとか、軌跡のコースの先輩の女性の方だったりとかが、触れ合った者同士が、そうやって真理を、たとえばこの本だったりとか、密教の祈りだったりとかで、それを運びあうっていうか、感じ合うというか……結局、やっぱりわたしたちはひとつなんですよ。

リンポチェ様も、前官様も、わたしも、そのコースの先輩の方も、みんな同じ「愛」というものに対して心がフォーカスしていて「これですよね?」「はいそうですよね?」っていう時間を共に受け取っているメンバーというか、存在なんですよね。

そのエネルギーに祈っていくし、そのエネルギーのことだけを考えていて、そこだけを注目していて、それに向かっていつも想っているんですよ。
祈りっていうのはそこに向かっているわけだから、矢印がね。
そのことによって、それを持ってるだけで、そのエネルギーをずっと受け入れてる人だけがやはり現実創造が速くなるっていう。

高野山では、お願いを叶える木にお願いをたくさん書いていいんです。護摩焚きをするとかですね。お願いを現実化するってことに対しての祈りに非常に特化してる祈りをされるんですよ。高野山ってそうなんですよね。

リンポチェ様も、わたしと対談の講演をフォレストさんが組んでくださったときも、祈りっていうものを叶えていく現実で、自分の思っていることを生きていく道を、ゲートを開ける、という祈りを率先してやってくださったりして。

 

祈りとは「今、ここ」にしかない

さらに、『現実創造に至る全部がひとつである全体性のエネルギー』というのはですね、「今、ここ」っていうタイムレスなところにしかないっていう教えなんですよね。

だから、祈りというのは「今」っていうことを、昨日のこととか、明日の心配とか、後悔とか、そういうこと全然考えなくて、「今、わたしがここにいる」ってことにすごく入っていくような行為、その感覚、内観していく力。

矢印を内側に、「今」っていうのだけに集中していくことが、その大いなる存在を感じたり、そこの大いなる存在っていうものが全部ひとつだからこそ、つながっているからこそ、わたしがこう生きたい、と思ってる想いがつながっているところに、サーッと流れていって、パッと現れるみたいな。

これが、祈りの現実創造の秘技って言ったら秘技なんですけれども。

そういったことをね、生きてきたというか。
わたしは小さい頃から、ほんとうに時間は今しかないなっ、てこともすごくわかってたし、過去とか未来というのは概念でしかないというか。
今、わたしが何を感じているかということだけが全てなんだな、ということもすごく思ってたんですね。

だから祈りによる現実創造の条件を図らずとも全部持ってた。エッセンスがただあったというか。
キリスト意識からわたしは入っていったんですけれども、そう生きてきたということを本に書かせていただいたりとか、こういった動画でお話しさせていただいたりしているんです。

だから「祈り=宗教」っていうことではなくて、わたしはそのキリスト教ですけれども、そうやって密教の方たちや、ほんとうに素晴らしい高層の方達とのお話の機会を頂けたりとか、全然、境目がないものですし、だから宗教の考え方が違うからケンカをする、とか戦う、とかっていうのはもってのほか、っていうか、ありえない(笑)。

逆に、もっとその心のなかに自分の愛っていうもの、神の愛というものに触れていったらそんなことはできないはずなんですけどね。
だから、手前でなにか愛の解釈を取り違えたり、思い違いしていると、そういうことが起こるんでしょうね、っていうことはありますけれども。もっと奥に入っていけば、それは存在しないはず、戦いは。

 

日常に溢れる、祈り

たとえばね、わたしは一人娘がいますので、彼女にいつも毎日お弁当を作ってたんです。学校で給食が出ない学校だとお弁当を作るでしょ?
みなさんもそうですよね。

お子さんの健康とか、これが好きって言ってたなとか、冷たくなってもこれ食べたら美味しいかな、とかって考えながらお弁当を毎日作るとか、お夕飯を作るとか、朝ごはんを作るとか。

わたしはそれが祈りだと思います。

自分以外のもう一人が、まるで自分のことのように思って、あなたとわたしはひとつになってその良きこととか、喜びというものに対して、形を作っていく、味をつけていくということを。

そういった食事を作って差し上げるってことも祈りですし、相手と自分がひとつで、同じで境がなくて、その共通の喜びに向かって何かアクションしていくとか、何かそう想っていくっていう、それが祈りによる現実創造そのものなんですよ。

だから難しいことじゃ全然なくて、
「あ、毎日わたしがお弁当を作っていることって祈りなんですね」みたいな。
「そうです、そうです」っていう感じで。

その暮らしの様々な場面というものが、わたしからすると、その大切に思う気持ちが、全部祈りそのものですし、「おいしいお弁当を作ってくれてありがとう」って空になった弁当をポーンと持ってくる、お子さんのその「ありがとう」っていうのが祈りですし。

祈りというのは感謝なので、その大いなる存在に……話が戻りますけど、わたしのおばあちゃんが様々な暮らしの素敵な瞬間を、いつも神に感謝していたっていう。
要するに、この素敵な瞬間、誰かが作ってくれた素敵な瞬間、タイミングについてありがとうって言う。

このおいしいお弁当を作ってくれたお母さんとか、お父さんとか、おばあちゃんに、お姉ちゃんとか、お兄ちゃんに、「ありがとう」って言うっていう。それが祈りなんですよね。

そういう生活とか、そういう丁寧な心とか、想いっていうのを、大事に大事にしていくことが、お願いが叶い出すエッセンスが自動的に増えていくっていう、それだけのことなんですね。

 

祈りをもっと自由に

だから、祈りっていうものをもっと形式ばらずに自由に捉えて。

そして、そうやってお互いや自分を大切にしていくときに、そういう生活や暮らしをしていったら、自分がこんなことを経験したいなとか、こんなものをやってみたいなとか、思っていたことが、どんどんひとつであるエネルギーに触れてるので、自然と現れてしまうっていうことの秘法というか秘技っていうものをね、ご一緒できたらな、というふうにいつも思っているんです。

それがわかってらっしゃる人も多いんですよ、実は。「思ったらなる」ということがね。思考が現実化していくっていう、ある意味、自己啓発の教えっていうものもまさにその角度だと思いますし。

それを、わたしは祈りっていう日本古来に元々ある言葉の、ちょっとある意味ポエトリーな印象もあるような行為というか、それを通して、その祈りを通して、現実創造のクリエイションの力っていう神秘的なものに触れていく、ということをお伝えしてるんですね。

ちょっと抽象度が高かったかもしれないんですけれども、このお話をいつかしてみたいなと思っていましたし、また、祈りによる現実創造の詳しいやり方のお話なんかも、これからもどんどんしていけたらなというふうに思っています。

 

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