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『神さまが味方する すごいお祈り』について想うこと

 

過去の思い出が、今、必要な時に道具となって現れる

〝過去の思い出が、今、必要な時に道具となって現れる〟

記憶は、そういう使い方でしたら思い出せるので、〝この本にまつわる、今〟についてを書かせていただくことで、みなさまの心と響きあえるものがあったらいいな……と感じています。

お祈りについての本を書かせていただけるなんて、ほんとうにわたしにとっての奇跡でした。
思い返せばどんな時も、わたしが無条件でしてきた、たったひとつのことといったら、祈りだけだったように感じます。

本の冒頭にも書かせていただきましたが、祈る姿をわたしに見せ続けてくれたのは、母方の祖母、ふささんでした。

 

祈りの時とは、静かな時間

同居をしていた時期は、明け方に一人、白樺の葉を箒ではいてお庭を整えてくれた後、ふささんはいつも、コップに一杯のお水を飲みました。
 
夜明けの頃の、まだ薄暗いキッチンで、彼女は必ず、朝のすべての瞬間瞬間の恵みを神さまに感謝をしてから、そのお水を静かに飲みほすのです。

目を閉じてうつむく彼女の毎朝の横顔が、わたしを祈りの世界へと連れていってくれたことを、今、神とふささんに心から感謝が溢れます。

祈りの時とは、静かな時間でした。
目を閉じて心の中に潜っていくので、そこは、とても薄暗い場所でした。
 
「神さまがくださった世界。そのことに感謝をしているのです」

そう教えてくれた、祈りのすべての美しさがつまった彼女の在り方を、今も変わらずに敬愛します。

 

祈りへの、わたしの愛

「祈りの習慣、祈りの力を知らない方々が多いので、わかりやすく書いてください」と、すでに決まっていたタイトルになるべく寄せられるよう書かせていただいたこの本は、〝祈りへの、わたしの愛〟だけは伝えられたのかもしれない、つたなさがたくさん残っています。

(実は、この本の前に書いた文章が「抽象度が高すぎて、難解すぎてわからない」と丸ごと不採用となり、もう一度書き直したものがこの本でした)

みなさんの暮らしの中で、ただ一人、静かに、祈りを捧げている人が共にいる生活をされたことはありますか。

わたしの世界のはじまりには、そんな人がいました。
 
そのおかげで、わたしの人生の方向が、初めから光の方へと向かっていきました。

どこかでこの本が、そんな存在になれたらいいな……と考えながら、書かせていただいたように思います。

そして、厳密にはわたしは、聖なる秘儀の祈りのごく一部しか、まだ知らないのだとおもいます。

それほど祈りとは、何か、とてつもなく偉大な力と、あまりに単純な愛の姿が潜んでいるのを感じます。

祈りによって、わたしはすべての現実創造を生きてきましたし、これからもそれをし続けるのですが、それでもわたしはまだ、きっと何も知らないままなのです。

だからこそ、祈りという道を通ってなされる神の愛の奇跡を、わたしはまだまだ体験するのです。

 

好きになった人が、たまたま「神の子」

ふささんと一緒に教会に行き、祈っていた時……。

ジーザスと呼ばれていた、痛みにある人たちを無条件で優しく癒し続けた、偉大な愛の化身が、幼いわたしの胸の中に顕れて、ふと、彼を好きになりました。

好きになった人が、たまたま「神の子」と呼ばれていた、というフィーリングで、わたしはクリスチャンになりました。

形式張った堅苦しさも、宗教という名のカテゴライズも、幼すぎたわたしにはわからなかったですし、大人になっても、そんな境界線に興味が持てませんでした。

わからないままだけれど、ただジーザスが、わたしの胸にともした灯りを、受けとったのです。

 

愛は、自由です

こんな形もない、けれどもここに在るのを、確かにわたしは感じている……

この肌感覚の祈りの世界を、自由に生きてきた人間がいることは、お伝えできる本なのかもしれません。

愛は、自由です。

ですから、カテゴライズや判断、思い違いの不自由さに……どうか、つまづかないでください。

自由でいいのです。

愛はどこまでも、自由でいいの。

そんなことをこの本でお伝えできましたら、とてもうれしく想います。

 

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